活動日誌−服部こうき

【20.11.16】亀山列車銃撃 「首のない赤ちゃん」のお兄さんが・・・

列車銃撃犠牲者「首のないあかちゃん」のお兄さんがお参りにきてくれた

「亀山九条の会」の機関紙「Paz(パス)通信」第64号2020年11月15日号が届いた。
冒頭に思わず釘付けになる記事があったので全文を紹介したい。
『列車銃撃の説明板と記名板がもたらしたこと
〜列車銃撃犠牲者「首のないあかちゃん」のお兄さんがお参りにきてくれた〜
 11月3日、天神にお住まいで、列車銃撃の証言をしてくださっている中根弘毅さんから電話がかかってきた。
「蟹江から、列車銃撃で亡くなった人の名前が書かれたのができたから見せてもらいに来たという方が来られた。名前と連絡先を聞いたから取りに来て礼を言ってほしい。」ということだった。
名前を見ると、8人の亡くなられた方の遺族ではないようだった。

夜、教えていただいた番号に電話した。
開口一番「説明板に書いてあった首のないあかちゃんは、僕の弟です。」あまりに突然のことで、びっくりするとともに体が震えた。
落ち着いて、こちらの説明板や記名板の経緯を説明した後、ゆっくりとお話を聞いた。

この日(1945年8月2日)は、買い出しの帰りで、鳥羽行のこの列車に乗った。

5人兄弟のKさんは、当時、蟹江で空襲があり、母と一緒に次女をのぞく4人(長女、長男、Kさん、三男の弟Mさん)で三重県南部の山間にある三瀬谷に疎開していた。
三瀬谷は何もないところだったので、時々蟹江に買い出しに行った。
この日(1945年8月2日)は、買い出しの帰りで、鳥羽行のこの列車に乗った。
機銃掃射があり、「ふせろ!」と叫ばれた。
長女と長男は、列車から飛び降り、下の草むら(森)に逃げ込んだ。
Kさんは、足が不自由で逃げられず、母と一緒でなければならなかったので、列車の通路に伏せ、その上に母が覆いかぶさり、1歳未満だった弟は母の背中におんぶされていたので、銃弾が撃ち込まれたのだった。

駅でMさんの首に綿を詰めてもらい、風呂敷に包んで、みんなで蟹江にもどった。

こんなことがあるのだと驚くとともに、昨年の説明板設置に引き続いて本年に犠牲者の記名板の設営と平和のつどいに取り組んできてほんとによかったと感じた出来事です。

10年ほど前、3人(長女と次女とKさん)でお参りしようと来たが、何もなかった。
姉たちが逃げた森のところの風景は記憶のままだった。
長女が説明板や記名板のことを知り、そんなことをしてもらってあるのだったらと3人でお参りに来た。

こんなことがあるのだと驚くとともに、昨年の説明板設置に引き続いて本年に犠牲者の記名板の設営と平和のつどいに取り組んできてほんとによかったと感じた出来事です。(服部厚子)』

この記事を読んでこの赤ちゃんの母親は戦後、どんな思いで生きてきたのだろろうかと感じた。
戦争は人の一生を大きく変えてしまうものであり、絶対に起こしてはならないという思いを改めて強くした出来事だった。

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