活動日誌−服部こうき

【18.02.04】友人の突然の訃報連絡 大学時代の同級生が亡くなった

6畳一間の部屋に二人で入ることになり、同じ部屋になったのが重栖隆君

一昨日、和歌山にいる大学時代の友人から和歌山に住む同級生の重栖隆君が病気で亡くなったことを知らせてきた(今朝の日刊紙赤旗に訃報の知らせが掲載されている)。

50年ほど前に遡るが、大学に入学して寮生活をすることになった。
6畳一間の部屋に二人で入ることになり、同じ部屋になったのが重栖隆君。
彼は大阪の天王寺高校の卒業で、阪大を受けたが問題用紙を持ち帰ってしまい、不合格となったらしい(確かに頭の良い男だった)。
生活を始めてみると、行動的な彼はいつ帰って来るのかわからないような生活(帰ってこない日もあったと思う)だったため、私の生活と合わず短期間で「離婚」することになった。

その後、彼は下宿生活になったが自治会民主化の運動やゼミが同じでその後もつきあいは続いた。

卒業後は党の専従職員、ニュース和歌山の編集長など彼らしく一つの仕事には満足せず、次々と新しい分野に挑戦した

大学生時代は、暴力学生(当時は京都大学の影響を受けた「赤軍」を名乗るメンバーたち)と寮自治会や経済学部学生自治会の民主化でたたかっていた(卒業時には自治会執行部には、暴力学生たちはいなくなり民主化された)。
重栖君は、こうした暴力学生に目の敵にされていたが、逃げ足が速く被害に遭うことはなかったように思う。

卒業後は党の専従職員、ニュース和歌山の編集長など彼らしく一つの仕事には満足せず、次々と新しい分野に挑戦した。
ヒマラヤ登山もこの時期ではなかったか。
1997(平成9)年には、『木の国熊野からの発信 「森林交付税構想の波紋」』という本を中公新書から出している。

私の人生で記憶に残る人物の一人

大学卒業後はほとんど会うこともなかったが、1999(平成11)年に私が突然選挙に出ることになり、この時に和歌山からバイクで応援に駆け付けてくれた。
彼は地図とビラを持って市内を走りまわり一日中ビラを配ってくれ、バイクでまた帰っていった。

その後、体を悪くしたという話は聞いていたが、65歳はあまりにも若い。
私の人生で記憶に残る人物の一人だ。
議会の会議などのため、今日のお別れ会や明日の告別式には参列できないが、亀山の地から重栖隆君の冥福を祈りたい。

(重栖隆君への弔辞の意味を込めてこの記事を書いた。)

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